酒造の歴史

「先祖の手代として・・・・・・」
酒造家(さけつくりびと)(こころ)が、今、開花する

近江商人の発祥の地・近江八幡市

昔の西勝酒造

 近江の国(滋賀県)の、ほぼ中央に位置する近江八幡市。その本格的な町の起こりは、豊臣秀次(秀吉の甥)の八幡城築城に始まります。
 秀次は近江八幡市に、織田信長亡き後の安土の城下町を、そっくり移して町づくりをしました。
 時は過ぎ、江戸時代に入ると、ここは天領(幕府直轄の領地)となり、信長が全国から集めた商人たちはここを本拠地として、自主独立の気概を持って全国に商いに出かけました。

昔の看板

 これが近江商人の中核を成す八幡商人の始まりでした。
 全国に行商に出かけた近江商人は、現地で代金の替わりに得た米で、各地で造り酒屋や造り酢屋を盛んに営み、今でも「近江屋」という酒屋が多く見られます。

享保二年(一七一七年)創業の老舗

古い紙

 この地にあって、酒造家の魂を子々孫々にわたって守り続けてきたのが、西勝酒造。
 享保二年(一七一七年)、今から二百八十年前の創業です。
 初代西村勝右衛門は蒲生郡古保志塚村(現在の八日市市、市辺町)で庄屋を勤め、苗字帯刀を許されていました。
 この勝右衛門が享保二年から酒造りを始めたことが当家古文書に記されています。
  当時、蒲生郡古保志塚村は仙台藩の飛び地になっていて、代官が常駐していました。

湖東の地に、富貴の相あり。

漢詩

 当時の造り酒屋は一種の文化サロンであり、文人・墨客の出入りも多くありました。
 江戸時代も末のある時、六代目 勝右衛門と親交のあった、碩学(学者)が地相を占い、
   「この湖東の地、富貴の相あり」
と言ったのにヒントを得、それまで使っていた酒銘『寿』印の表音に、湖東富貴の四字を当てたのです。
 良質の酒造りもさることながら、まさに、ぴったりの酒銘を得た勝右衛門は、更に、精力的に、家業に励みます。

明治維新の荒波に・・・・・・

西勝酒造旧店舗

 西勝二百八十年の歴史の間には数々の浮き沈みがありましたが、明治四年の廃藩置県により、大名貸しが回収できずに、家業が破産する、という憂目に会いました。
 七代目 当主勝右衛門は豪気の人で、他人の面倒見が良く、村人から慕われていましたが、女性にもよくもてたといいます。
 しかし、そこは勝右衛門の妻。嫉妬するどころか、
   「男も惚れるくらいのお人じゃもの、女子に惚れられるのは当たり前」
と言って平然としていたとか。
 いよいよ代官たちが仙台に引き揚げることになったある日、代官所に呼ばれて行ってみると、そこに待っていたのは代官の渋面。

木箱

「おう庄屋。借財はいづれ返してはやるが――どうじゃ、そちは長い刀と短い刀の、どちらを所望いたす。(長期返済か短期返済かとの謎)
「代官様、そりゃもう短いほうが――」
「何!」
代官はいきなり腰の大刀を抜き放ちました。
「うわっ」
 この顛末に仰天して逃げ帰った副庄屋。
「庄屋様が斬られなさった」
と、村中が集まって協議しているところへ勝右衛門はひょっこりと帰ってきました。
 脅かされても逃げもせずたいした度胸だと誉められて
「いやいや腰が抜けた丈じゃよ」
と謙遜した勝右衛門でしたが・・・・・・、結局三百両の金は戻ってはきませんでした。
 決して権力に屈しない庶民の代表者たる勝右衛門。その心意気は、酒造りにも当然活かされてきました。
<自分が納得できる、ええもんだけを造る>という、勝右衛門の酒造り哲学に・・・・・・。

「人間も買うていただているのや」

勝治郎

 当時幼かった八代目 勝治郎は成人して日露戦争に従軍。帰国してこの近江八幡の地に移住。祖業再興を胸に、酒の下ろし小売を生業として刻苦精励しましたが、その過程で頼みになるのは自分一人と身に染みて悟り
「人を当てにしてはならぬ」と常々申しておりました。

出荷風景(昭和の始め頃、左の酒蔵が現在の酒游舘)

 明治三十六年漸く現在地の仲屋町中に廃業した造り酒屋があったのを買入れ、念願の再興を成し遂げたのです。
「蔵人たちが、夜も眠らんと、精魂込めて造った酒や。わしらはそれを、ただ売ってるだけやない。人間も買うていただているのや」
 これが、八代目の信念でした。

数々の栄誉に輝いた銘酒を醸出

宮内省
メダル

 この「本物づくり」にかける情熱は、当然のことながら、高く評価され、
・明治三十六年
 第五回内国勧業博覧会二等賞受賞
・大正三年
 陸軍特別大演習に際し、宮内省より御買上
という栄誉に輝いたのです。
『自分が納得できるものだけを提供したい!』
 この、西勝ならではの気風は、享保二年以来、現在まで脈々と受け継がれて、今、時代にふさわしい形となって、私たちの前にその姿を現しています。